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私が猫をほしがる理由 過去の思い出と自由奔放さ

投稿日:2015年10月29日 更新日:

自由奔放に甘える猫

 「人間は、猫派の人間と犬派の人間にわけられる」

 この言葉に代表されるように、大昔から両種を友にしながらも猫派と犬派は抗争を繰り広げてきた。ご多分に漏れず、我が家族にも信奉している派閥があり、それは犬派であった。そして、私も犬派であった。しかし、最近になって猫が無性にほしくなってきた。つまり、猫派に傾きかけてきた。なぜ、だろうか? この理由を、猫派によって猫が支持される理由を考え、そして、猫の思い出を回想して解き明かしていきたいと思う。

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猫派が猫を支持する理由

 猫派は、なぜ猫を支持するのだろうか? 一般的に、「気まぐれ」とか「わがまま」とか猫は語られる。この形容を聞いただけでは、「猫より犬で」と皆思うはずではないか? しかし、犬派により熱狂的に犬派支持されているように、猫は、猫派に溺愛的に支持されている。この理由はなぜなのか? 一般的に猫が持っている性質をあげ、その性質をどのように支持しているのかを猫派の人間の思考を辿りながら考えていく。

猫の基本的性質

  • 干渉される事が嫌い
  • 自由奔放
  • 愛想がない
  • 甘え上手(自分の欲望を満たすときには甘え上手になる→合理的甘え上手)

猫派の人間の思考

  • 猫ちゃんは、空気のような存在であり水のような存在だ。つまり、猫ちゃんの慈悲にすがって人間は生きているのであって、我々がどうこうするとかそんな存在ではない
  • 必要最低限のこと(トイレの場所は覚える)はこなす。猫ちゃんのその自由奔放さがよいのだから、必要以上に拘束することは避けるべきだ
  • 人間でないのだから猫ちゃんに愛想はいらない
  • 利己的であってもよい。たまに見せるそのしぐさが素敵なのさ

 猫派が猫を支持するのにも納得がいく。こうしてみると、猫の基本的性質は、扱い使い辛いように一見思えるが、猫派の人間には猫の生き方にあこがれる一面がある。

 そして、猫派の人間にもおそらく猫の基本的性質に好き嫌いはあるがろうが、基本的に猫には寛容な精神で接している。ある種の神聖な存在だということだ。著述家の古谷経衡氏は猫に対し下記の発言をしている。これは猫を特別な存在とみているからである。しかも、いいほうに特別。これはもう猫を神聖視しているとみてよい。

  • 「ネコ科の動物を凌虐する人間は全て極刑にしろ」
  • 「可愛い動物は殺してはならない。可愛くない動物は殺しても良い」
  • 「世の中には、『私はいい人です』となどといって憚らない人間が居ますが、そんな人間は一番信用できません。一番信用できるのは、猫のためにどれだけ愛情を注げるか」

 つまり、猫派の人間が猫を支持するのは、生き方への憧れと猫を神聖視しているという2つの理由がある。

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私の猫史

 猫が気になるということは、猫との接点が過去にあるはずだ。私にも少ないながらも猫に接した経験がある。ここでは、私と猫との過去の接点を少し紹介する。

幼少時代の思い出

 少年時代に、猫との出会いと別れを通して、初めて猫と接点を持つ。猫というものが心に残る。

 28年生きてきた中で一度だけ猫が家に滞在していたことがある。飼っていたのではなく一時的に家の子供が囲っていただけである。9~10歳くらいの頃、ある日突然に妹が黒猫を持って帰ってきた。雌の毛並が美しい黒い猫だった。当然ながら妹はその猫を家で飼いたがっていたし、初めてのペットに私も興奮していたのでそう思っていた。連れてこられた猫はそれから一週間ほどは家に居座っていた。家の中でいたわけではないけれど、外にいたし、やる餌も食べていた。

 しかし、両親、特に父親が猫をあまり好んでいなかったようだった。突然、その猫はいなくなった。どうやら、父親がその猫を遠くに捨てに行ったようだった。

 ショックであった。元の状態に戻ったといえばそうかもしれないが、野生に戻った猫がどんな生活を送っているのかを考えると悲しみが心に湧くのを感じた。同時に、猫を捨ててきた父親に怒りを覚えた。こうして、最初の猫との接触は悲しみと若干の怒りで終了するに至った。

私が猫をほしがる理由

 私が猫をほしがる理由は2つある。一つは、過去の猫を飼えなかった件を引きずっているからだ。もう一つは、猫の生き方に憧れを持っているからだ。

 人間はできなかった経験を引きずる。「あの時、もっと勉強しておけば~」・「あの時、あの子に告白しておけば~」・「あの時、もっとああしていれば~」など、できなかった経験を思い出し、仮定法により別の未来を思い描く。私の猫への思いも似たようなところがある。得られるはずだった猫との思い出をつくりたいと感じているのかもしれない。

 猫の「自由奔放さ」にはある種のあこがれがある。高校時代に、あこがれている人物が私にはいた。彼はそう「自由奔放さ」を持っていた。何かは分からないが、彼は、自分の行動を決める原理のようなものを持ち合わせていて、それにしたがって行動していた。他人の意見に影響されて私は行動してしまっていたのだが、彼はそうではなかった。当時の私には持ち得ていないものを彼は持っていた。ないものを持ち合わせていた彼に私はあこがれていたのだ。

 今もその「自由奔放さ」へのあこがれは多少なりとも残っている。そして、そのあこがれを猫にだぶらしている。だからこそ、猫がほしいと、より能動的に思うのだろう。また、あこがれの人物は高校を卒業して以来、音信不通であり、どこで何をしているのかは分からない。「自由奔放さ」を発揮して、自由に世を泳いでいる彼を見られない。その分を少しでも猫で補完したいと感じているのかもしれない。

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